小学校低学年のときからずっと囲碁をやっていた。始めた理由は祖父がやっていたからだ。
 ときは奇しくもヒカルの碁ブームの終わりごろ。始めたばかりの頃はそこそこ人がいたけど、ある程度強くなると周りにやっている人はほとんどいなくなった。初めの頃はただ碁石に触ることすら楽しかったのに、気が付けば逆立ちしてもプロどころかアマチュア強豪にもなれない程度にはサボッていて、もう一度囲碁の楽しさに気が付いたときには遅すぎた。
 それでも私は恵まれていたと思う。大学で同じくらいの棋力の同世代と気軽に対局できるようになり、4回生のときに勝率一割無いはずの格上を二連発で沈めて全国大会に入賞できた。
「これでやっと、終われる」
もう碁石に触らなくなって結構経つ。せいぜい囲碁っぽいスマホアプリをポチポチする程度だ。別に嫌な思い出があるわけじゃない。囲碁は楽しい。楽しいから、気が向いたときにしか触らない。アマチュアだから、所詮そんなものなのだ。


将棋界には糸谷哲郎八段というマジックプレイヤーがいる。
調べれば調べるほど、「ああ、この人の地頭は異常だ」と思う。
当たり前である。日本の将棋人口は? 統計資料によると500万人だ。日本で何番目に強い? この記事の執筆当時の棋士レーティングは13位だ。単純計算すれば40万人の中の頂点。

これは努力だけで到達できない境地だ。才能の塊だ。そもそも生まれ持った出来が違う。だから、マジックが強いのも当たり前だ。

そう言いきりたくない私がいる。
何故私がアマチュア強豪になれなかったのか。客観的に見て明らかに努力不足だったからだ。自分が一番よくわかっている。才能が試されるラインにすら、私は立てなかった。
 囲碁にオールインを恐れた結果、今、私はマジックを触っている。マジックでも同じスタンスの失敗をしている。目の前の勝負には真剣に勝とうとはするが、努力はそこまで深追いしない。一番になるよりコスパのいいラインで抑える。応用が利くところだけ触って、あとは流れで。

ここから先の文章は、そんな中途半端なアマチュアプレイヤーの考える話である。戯言のたぐいである。ただし、意見反論疑問はうけつける。そんな感じでもうちょっとだけ続くんじゃ。


1.踏み込み過ぎ


1-1.正しいと思った自論をぶつけるのに躊躇しない、ぶつけられてもひるまない


 囲碁では、私は初心者から一応低段者までの指導を任されることがたびたびあり、対局後の指導方法で比較的評判のいいものを以下に示す。

「まず、一度打った碁を並べなおし」
「その都度、悪手に見えたものの真意を問い」
「その意図をくみつつ、相手の棋力でも使いこなせそうな別解の簡明策などを示す」

 これは普通のことだ。みんなやってることだ。
 そう思っていた時期が私にはあった。
 ティミー、ジョニー、スパイクという分け方をするとすれば、碁打ちは、まずスパイクなのだ。そのうえで、ジョニーかティミーかがほんのり入る。

 私とて例外ではない。もう染みついているといってもいい。ふと自制心が切れた瞬間に顔を見せるのは、囲碁をしているときと同じ、スパイクの般若だ。

 デッキ構築にはかなり強烈な意思が入り込む場合がある。
 本当に強い手というのは透明だ。悪手にこそ自分らしさが出ると私なんかは思ってるしそんな悪手が嫌いじゃないが、それが一般常識なわけではない。

 「強くしたいんだったら」~は筋が悪いと思う。たぶん~の方がいい。

 みたいな言葉を平気で使ってしまうときがある。
 囲碁なら問題にならない。その場のほぼ全員がガチのスパイクなのだ。私の代案が間違ってれば反論貰うし、正しければ「なるほどね」で終わる。全員慣れてるのだ。
 翻って、カードゲームで使うのは?
 大変危険な言葉だ。友達消せるレベルのパワーがある。


1-2.「正しい」負け方、くやしさの生かし方を知っている


 完全情報ゲームの世界は割と厳しい。
 だから、始めたばかりの頃は敗戦になんども直面する。
 それで腐る人間は辞める。残るのは敗戦をバネにするタイプだけだ。
 私の知っている例に、負けた瞬間に悔しさからか「レディーファーストでしょう」と言い放った女子小学生が居る。
 彼女はどうなったか。始めて1年で私を追い越し、やがて女流アマチャンピオンになった。私より近くで見てた人曰く、「メンタルの波が激しいタイプ」だったらしく、それが原因でプロにはなれなかったらしい。
 この例は流石に極端だ。
 それでも、ひとつだけ言えることがある。

 「レディーファースト」

 一見横暴に見える。
 ……いや、ただの横暴である。

 しかしその子は、そのくやしさをバネにして、力をつけた。
 飛び出た言葉がちょっとヤバかっただけ。
 どうすればいいかの方向性は間違っていなかった。
 少なくとも私は、「女流アマの頂点」が口先だけで取れるとは思ってない。

 ちなみに私は「ミスしないで引きで負ける」ときには満足感があるタイプだ。
 土地をサイドインした上でマナスクリューするなら仕方ないと諦められる。ゲームの半分は負けるのだ。だからこそ、やれることをやったうえで負けられるのは幸運だ。囲碁で負けるときは、常に後悔が付きまとう。


2.縮こまりすぎ


2-1.読み筋にチラついたら踏み込めない


「読んでいた筋を相手が通過したうえで負ける」

これほど悔しいことはない。
お互い同じものを見ていた。ならば腕前は同じのはず。それなのに負ける。なぜだ。解せぬ。
しかし、カードゲームは相手の取れる行動に制限がある。
いわゆる、ケアするかしないかといった問題。
完全情報ゲーム畑はそのゲームに上手くなりたい人が多い。
手札なんて概念は無い。しいて言えば、無限にある。
だからこそ、最善を尽くそうとする。
その最善は、不完全情報ゲームで必ずしも有利に働くとは限らない。見えてる負け筋を過大評価してしまう。

ティムールの激闘を持っていたら負け。だから余計にブロックしよう。
その結果、勝っていたゲームをひっくり返される。そんなプレイヤーが多いような気がするのだ。

ちなみに私は割と「目先の勝負に最善を尽くす」タイプだったので勝負手だったり見えてる負け筋っぽいのを無視したりとか囲碁でもしてた。そんな私でも、マジックをちょくちょく始めたばかりの頃は結構手が縮こまった。


2-2 相手の情報をあまり見ない


 囲碁界にはボヤキというものがある。
 マナーはよくないが、思考のテンポを取るためのもので、よっぽどのものでなければ黙認される傾向にある。
 そのボヤキで言ってることの八割は信用できない。
 だから、盤上を見る。自分の見えているものだけを頼りに選択する。MOには近いのかもしれない。

 リアルmtgは、相手の視線や手の動きも気にするべきときがある。
 しかし、真正の囲碁畑の人間はそういったものを軽視しがちである。

 なお、これに関しては麻雀畑と兼任していたり、ボードゲーム畑に顔を出しているような人だとあまり当てはならない傾向にある。
 私? 麻雀もボードゲームも大好きだったよ。つまりそういうことである。


3.まとめ


完全情報ゲームと不完全情報ゲームの違いはきっとこんな感じ。
個人の感想だけど、意見や質問は受け付け中。

コメント

紅蓮
2018年12月10日2:57

>4回生のときに勝率一割無いはずの格上を二連発で沈めて全国大会に入賞できた。
ここダンクの片鱗

けみこ
2018年12月10日21:22

to 紅蓮さん

手札十枚以上抱えるとかクラガンウィッカーとして恥ずべき案件やな!

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